検問所の記録|イスラエルとパレスチナ(イスパレ留学記2)

先日Palestine Film Instituteのウェブサイトで「オマールの壁/Omar」が無料公開されていて観ました。シティアクセントのパレスチナアラビア語が懐かしいなあと思いながら、この間に私は書かねばと思い、1ヶ月以上先送りにして書かなかった留学記を書きます。

オマールの壁、みなさんに見て欲しいなと思ったのですが、無料公開期間は終わってしまったみたい。でもまた新しい映画が観れるようになっていた!!おうち時間のお供にぜひ!😊☟

www.palestinefilminstitute.org

 私も週末に観ようかなと思っています。楽しみ。

 

さて、、今回は検問所について書きます。 滞在中検問所を通った回数は2回(たった2回ですが…)。2回ともラマッラからイェルサレムへ行くときのカランディヤ検問所を通りました。イスパレ詳しい方は十分ご存知だと思うので、背景事情飛ばして読んでください。

 

背景事情

まず検問所とは?簡単な説明だけ、

 

検問所(チェックポイント)とは
第二次インティファーダ以降イスラエル軍より設置。パレスチナ暫定自治区イスラエル側の移動をする際にはこの検問所を通過する必要がある。目的はイスラエル内の安全保障のため、とされる

参考までに…カランディヤ検問所の様子(2016/05/04)

www.youtube.com

 

私はラマッラの近くに滞在していたので、イスラエル側に行くときは検問所を通過しなければなりません。例えば空港に行くときは、ラマッラからイェルサレムに南下し、また北上するという奇妙なことをしますが、地図にも現れている点線がその原因です、これが中東戦争以降のグリーンライン、すなわち「ボーダー」というもので…横切ったら早いのに!できません~~これがただ移動の制限になるだけでなく、経済活動の制約にもなると考えると、、、🤔

 

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私はパレスチナ西岸にずっと滞在していたから、そういう視点が多いです。偏っているといえば偏っていると思う!でもその前提で読んでいただければ…🙇

 

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このブログは、いかなる政治団体、宗教団体とも無関係です。

 1回目

朝金曜日に、イスラエル人の友達に会いにイェルサレムに向かう途中だった。金曜日は礼拝日だからイェルサレムまでお祈りに行く人がいるからか…?と考えてもみたが理由があるかどうかは知らない。

いつもはイェルサレム〜ラマッラの直通バスが出ているから検問所で降りる必要はなかった。そのときはイェルサレムに行く時は途中で銃とトランシーバーを持ったイスラエルのセキュリティチェックの人たちがバスに入ってきて、パレスチナ人はIDカードを出して、ランダムに質問を受けてたりしてた。ラマッラに行くときはパレスチナ側のセキュリティチェックがあって、またパレスチナ人はIDを見せていた。

 

検問所を通らなきゃいけないときは、乗っていたバスをカランディヤで下りて、あの無感情に立ちはだかる壁を見ながら、行き慣れているのであろうパレスチナ人の後ろをついていきながら、砂っぽい道路の上を歩く。「ようこそ」という文字を見れば、まるでテーマパークに来たとき、もしくは初めて訪れる国に着いたときの高揚感を人々は思い出すのか?その簡素で無機質な青い看板が語っていたのは、「検問所へようこそ」という、歓迎とは無縁に思える文字列だったが。

 

買い物のときは自分の前にお客さんがいても商品をレジ元にすぐ置くようにしないと、自分が列を作って並んでるつもりでも、後ろの人に抜かされてしまうこととか、知り合いでなくてもその辺の人といきなりおしゃべりを始め出すこととか、そういうことに、勝手ではあるが、アラブらしさを感じて、好意的な感情を抱いていたものだった。けれど検問所では、皆が列を作って黙って並んでいる姿があり、私はそれが滑稽にも見えたし、悲惨にも思えた。

 

何回も聞かされてきた、もはや象徴にもなっている、あの回転扉。緑の光が点灯しているときは一人一人あの扉を回して進めるけれど、いきなり赤い光に変わる。そうすると自分も流れに乗って通れるだろうと思っていた人が、扉を押すけれど回らなくなって、少し驚いた表情を見せる。扉の隙間から見えるのは、軍服を来た私と同世代くらいの女の子が、無表情でチョコレートを食べながら、目の前の(ガラス越しではあるが)パレスチナ人に対して何か指示をしている様子。

 

検問所をいよいよ抜けたとき、パレスチナ人のおじいさんが外国人である私と私の友達を見て、「パレスチナへようこそ!」と声をかけてくれたのも皮肉だった。「国際的」には、この検問所を越える前がパレスチナ自治区であり、超えた先がイスラエルであった。1948年以前にタイムスリップすれば、おじいさんの言うことはありふれた歓迎のメッセージにすぎなかった。おじいさんの言葉に意図があるとしたら、もしくはないとしても、なるほどと思っている。

 

あの数十分だけで、それこそテーマパークを1日中楽しんだくらいの感情の激しさと疲れが押し寄せてきて、もういいです、これだけで私は満足ですという気持ちになったので、それからなるべく通らないようにしようと思った。

 

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2回目

その検問所がコロナの影響で閉ざされるとか言われるようになったのは3月中旬。パレスチナ自治区からイスラエルに働きに出ているパレスチナ人は検問所を通れなくなったようで。外国人にも当てはまるのか分からなかったけれど、もしも検問所を通過できないと私はイスラエルにある空港にたどり着けないので、他にも起こりうるさまざまなリスクを考えて、規制が強化される前に出国することに。そのときが2回目の検問所体験。

今度はイェルサレムに居住する家族を持つパレスチナオリジンの友達の車に乗り込んで、検問所を通ることになった。


アラブの曲をかけ、陽気に運転している。他の車に道を譲るとき「تفضل」とつぶやくとことか、割り込んできた車に対してアラビア語でswearするとことか、日常語に関してはアラビア語の方が染みついているんだな。彼はパレスチナの大学で、同じアラビア語フスハーの授業をとるクラスメイトだった。

 

途中の道はでこぼこで、車は好き放題路駐していて、騒がしいのにどこか寂しかった。この地域はイスラエル側にもパレスチナ側にも管理されていないところなんだと彼は教えてくれた。その風景が既に、語りかけていた。

 

検問所までまだ距離があるところで突然彼は、この曲を流すのをやめようかと言って、英語の曲に切り替えた。なんで?と聞いたら、検問所の人はこういうの好きじゃないからね、と言った。それがいかにも慣れた口調で言うんだ。

 

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車で通る検問所は、高速道路の入り口を思い出した。まずパスポートを出すように言われる。どこに行ったの?いつ入国したの?それはどの便だったの?出国の便は何時?聞かれて答えると、その人はどこかに行ってしまって、しばらく現れない。

 

軍服を来て銃を下げた女の人が、今ボスの返事待ってるんだ、と伝えに来てくれた。そしてまた待つ。

 

何回かこちらに来て、同じように伝える。車を運転してくれた彼が、どのくらい時間かかるの?ボスにまた確認するように連絡してくれない?と聞く。そうするとその女の人は、今ちょうどボスと話しているところなの、とトランシーバーをわかりやすく私たちに見せる。私じゃないの、軍の指令が一番強いの。優しい顔のまま、落ち着いたトーンで話す。首には銃がぶら下がっている。

そんな彼女に対して、彼が何かを言おうとしているがさえぎられる。しかしまたタイミングをうかがって、落ち着いた様子でこう言った。

「As a Palestinian, you are the niciest person I've ever met」

私は彼女の言動に優しさは感じたけれど、特別な優しさを感じたわけではなかった。むしろ極めて普通の対応だと思った。彼が見たもの・見てきたものは、私のそれとは、やはり違かったのかな。そう想像することしかできないけれど。はにかんだように「Thank you」と言った彼女。忘れられない光景。

 

待っている間、アラビア語で話しかけて来た職員(兵士と呼ぶのは正しいのか、ただ職員という言葉にも違和感を覚える…⁇)もいた。アラビア語あんな風に流暢に話す人もいるんだね、と言うと、あの人はドゥルーズだと思う、と彼は教えてくれた。ドゥルーズの思想の中にはシオニズムと重なるようなものがあるらしく、アラビア語話者であると同時にプロイスラエルドゥルーズもいるらしい。アラブ人はイスラエル市民でも兵役義務がないのに対して、ドゥルーズは兵役義務がある。彼はドゥルーズの思想に並々ならぬ興味を見せていたので私も興味を持った。イスラエルの北部に多く住んでいるそうで、そこに行くチャンスのなかった私は滞在中その人以外のドゥルーズの人に出会うこともなかったけれど。

 

検問所で仕事をする人って、どんな層の人なんだろう?と純粋に疑問に思う。今までに幾度となく聞けるチャンスはあったのに、私はある評判だけを聞いてそれに感情を寄せるばかりで、自分からそれ以上のことを知ろうと思いもしなかった。それに同調のようなおそろしさを感じていた。でもそれで知った気になっていたのは、ただの偏見でもあったと思える。帰国してから、もっと知りたい、と思うな。帰国してからのほうが情報も限られてるのに。

 

なかなか戻ってこないパスポートをただ待つのも飽きて辺りを見回してみると、左手には救急車が同じようにチェックを受けてる。ああこれか、運ばれている最中でも止められて命を落とす人もいるんだ!と強い口調で言っていた人を思い出す。

 

隣で運転席に座る彼は、さっきから何回もお父さんから鳴る電話をとっている。今どこ?時間かかってるの?イギリス英語の間に挟むアラビア語を、私は横で楽しんで聞いている。「カランディヤの検問所じゃなくてヒズマに行った方が、絶対いい」とお父さんが説得をしだしたとき、やっとやっと人が来て、パスポートが帰ってきた。1時間ほど待っていたかな。

夕暮れも終わりに近い頃。

ここを過ぎると、街が一変する。整えられた道路、整えられた分離壁ヘブライ語の看板、信号、この景色が多くを語っている。途中にはアラビア語ヘブライ語並列に書かれたお店の看板も見えて、ああここはアラブ人居住区なのかと推測できる。この検問所を隔てた先では、パレスチナ人も大抵ヘブライ語を使える。

 

運転をしてくれた彼に何気なく、家族はずっとイェルサレムに住んでいるの?って聞いてみると、イェルサレムがヨルダンの管理下だった頃、家族がそこに家を建てたから、今の家があるんだと教えてくれた。

「I'm the result of history

自分が生まれた国は自分が生まれる昔、植民地化された。その結果こうして白人の自分がいるんだ、とおどけたように言った人の言葉を思い出す。歴史の結果を体現しているとでもいう人、街、それが今まさに私の見ているもののすべて。それが、ものすごい事実として、心を奪われそうな明かりの灯る、夜のイェルサレムの街を通して伝わってきた。

 

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