「言葉」を紡ぐ-寛容とは何か-(RI)

  

 お久しぶりです。RIです~:)

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 ”Black lives matter”や「りん🍏」の投稿を受けて、改めて考えることがありました。

それは、「寛容」とは何だろう…ということです。宗教、出身、ジェンダー、人種といった様々な「差異」がありますよね。それを個人が、集団がどう受け止めるのかという姿勢のようなものです。しかし個人的には、きわめて難しい言葉であると思います。

 

 

 そう考えるきっかけとなったのは、まさしく大学入学だったんです。

 現在、交流文化学科に入学して4年目となったんです(早いですね~笑)。交流文化学科って何や?と少しわかりずらいので、“Department of Tourism and Transnational Studies ”という英語名も併せて紹介したいと思います。そう、簡単に言うと「ツーリズム」と「トランスナショナル文化」が特徴です。今度は、ツーリズムってなんだよ…て思いますよね。私も4年前は、そうでした。💁‍♀️

ここでいう「ツーリズム🛬」とは、観光だけでなく、国境を越えて移動する「文化」「ヒト」「情報」をすべて含んだ「モビリティから生じる現象」そのものを見ることです。コーヒー☕️、日系○○人、バナナ🍌、難民、イスラーム、ハワイ🌺。こう見ると、バラバラかもしれませんが、すべて「移動」「変動」を伴っています。これら「すべて」の誕生👶や変化を追う学問✏️ですね。

 んっとまあ話がずれてしまったんですが…「交流」する文化を観ていく(学問的に検証をする)なかで、「寛容/不寛容」という文字を耳にすることが多かったわけです。だいぶ前の記事に書いた通り、「イスラーム🕌」に絞って学んできました。「ヨーロッパ(フランス、ドイツ、オランダなど)社会におけるイスラーム」、をはじめとした様々な地域に広がった「イスラーム」です。便宜上「」で「イスラーム」と括っていますが、実際は「どこの、誰を観るのか」で印象も変わります。近年では、集団というよりもむしろ個人によって価値観もかわるので、一概には言えませんが…

どんな現象を見るにあたっても、ゲストとホストの関係のなかでは「寛容/不寛容(同化の推進)」という問題とは切り離せないという事実がありました。(観光におけるゲストは観光客で、ホストは地域社会です)

 

 ここで(外国語✨学部らしく)語源からみていきます。

「寛容」とは、”Tolerance”です。日本語では、「寛容」「忍耐」というように訳されます。15世紀に初めて使われた言葉のようですが、18世紀の啓蒙主義思想のもと、西洋において「信教自由」が認められた時に多用されたようです。ここで言う「寛容」とは、主にカトリックプロテスタント間における「宗教的な寛容」を指します。厳密にいうと、ローマ帝国においても「寛容」という概念はあったようなので、ここでは、toleranceに絞って考えます🤔。つまり、まずは宗教とりわけ「キリスト教」において使われていたようです。*1

 

 はたして現代の「寛容」とは、何だろうか…。

 「寛容」とは、宗教間おいての「差異」だけではありません。異なるバックグラウンドを持つ人々が交流するたびに、「違い」は生まれます。宗教、出身、ジェンダー、人種といった多様なものです。マイケル・ウォルツァーの言葉を借りれば、「差異があるところに寛容は生まれ、寛容があるところに差異が生まれる。」ということです。*2

それを一人一人が受け入れていくことが「寛容」です。しかし時に、差別、衝突や迫害をも引き起こします。

 2020年6月の今、”Black lives matter”運動です。こういった「肌の色」といった人種差別に対する反対運動は長い年月をかけて、徐々に可視化されています。白人至上主義に対して私たち「立場の弱い者」は救われないのだろうか。そう思うと、胸が苦しくなってしまいます。「りん🍏」も書いていたように、私も「差別」を経験しました。2017年8月に英国で自身が受けた「アジア人差別」は今でも胸に残っています。勉強大好きというヤジが飛んできたり、目を細める仕草をされたりです。りんと比較すると場所も期間も違います。しかし差別には変わりありません。それを「気にするな。」なんて無理です。ちょっとした「からかい」が憎しみに変わる人もいるでしょう。しかし、私はその連鎖を続けたいとは思いません。無暴力・不服従を掲げたガンジーのように、「言葉」で訴えたい(糸は紡ぎません…が)と思うようになりました。どうすれば、この差別、暴力、衝突をなくすことができるのかと。

 

 では、どうすれば「寛容」が実現できるのだろうか。

 まず私は、自身と向き合うことから始めてみます。知らないうちに、自身の価値観が傷つけているのではないかと疑います。例えば、日本人という言葉です。私の友達には、様々なバックグラウンドを持つ子がいます。しかし最近まで、平気で使っていました。異文化に触れた時、"I can't accept because  I am japanese."と口癖💭のように言ってました。なんだよこれって改めてみると思いますね。「日本人」を言い訳にしているだけなんです。うまいように使っているだけなんです。ふと考えてみると「日本人」ってそもそも何だろうって…「日本に生まれ育った人?、日本語ネイティブ?日本の血?」というように私の価値観が友人を気づけていたと思うと、なんとも申し訳ない気持ちになりました。では、そもそもこのイメージ?偏見?って何でしょう。

 偏見(Bias)の語源は、「切り取り✂」です。

 物事の全貌を見ずに、一部を切り取られた視点のこと。そのフィルターを通して「異文化」を見ることで、不信感が生まれ、やがて(ひどい場合には)衝突を引き起こしてしまうのではないでしょうか。では、一つ一つ明らかにしていくこと、「全体」を可視化していくことで、取り除かれるのかもしれない。つまり、異文化間の不和を無くしていくためには、個人が「知り、理解する」が必要不可欠です。他者からの権利、差異の寛容を求める以前に、自分自身の中にある「Bias」に気づき、知り、伝えることが今の私にできる最善のことではないかと思います。例えば、「日本人🇯🇵」「イスラーム」といったものです。時には明るい話題も。小さな声かもしれません。私の声に耳を傾けてくれる友人、家族に感謝しながら、「私ができる」ことをコツコツと発信していきたいです。そしてこれを見た誰かが、一人でも共感📣してくれたらうれしいです。

 

 最後に

 長くなってしまって大変申し訳ありません🙇‍♀️。これを見た中高生時代の先生は、腰を抜かすでしょう。あの時は、荒れてしまって、申し訳ありませんでした。

 そして、この世から差別がなくなりますように。今回命を奪われたGeorge Floydさんのご冥福をお祈りいたします。

 

 以上 田舎の無名大学生、RIでした。

 

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*1:詳しくは、ヴォルテール著『寛容論』にて。

*2:マイケル・ウォルツァー著・大川正彦訳『寛容について』