声を上げるという疲労感(帰国後備忘録)

🌷2020年5月~7月の記録

 

どうして「声を上げる」「NOと言う」「反対する」ということに、素直に共感できないんだろう?

 

BLMの賛同の声が力強ければ強いほど、どうして違和感を感じてしまうんだろう?

 

私はジェネラルに差別に反対だし、制度として既に組み込まれてしまっている差別にはなおさら反対だし、そしたら同じように、力強く叫んだっていいのに。

性暴力に対して力強く反対することも、併合に力強く反対することも、あらゆる理不尽に力強く反対することが、どうしてできないのか?

 

🌹blackoutはもう終わったの

 

例えばBLMとか、あるショッキングなニュースに対するいろんな人たちの反応をSNSを通して眺める。正直、正義が消費されているような感じがしてしまう。なんだか気持ち悪い、そう思ってしまった。

 

「知ること」「声を上げること」「呼びかけること」

この能動的な行動に対して、どうして気持ち悪さを覚えてしまうんだろう?

 

ストイックに頑張れば正義を実現できるという安易な想定への違和感なのか、手段と目的を取り違えることへの恐怖があるのか、なんだかよくわからないけど。

 

“Pre-determining the form of resistance tends to privilege the male political subject in accounts of resistance” (Hughes 2019)

 

こういう言葉に出会うと、目が開かれる。

 

同じように、Saba Mahamoodの述べるagencyの考え方も私には魅力的だった。

 

抵抗とはどんなものか。

 

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ヨルダンにいたとき、シリアキャンプに関わるNPOの方とお話しした。図々しくお家まで上がらせていただいて、カレーの味を懐かしく味わいつつ、シーシャの香りの中、理想と現実の差をただただ呆然と眺めていた。

キャンプ内の教育はどのようなものであるべきか?民主主義的なことを訴えたら、逮捕されるかもしれない、殺されるかもしれない。そんな社会があるのに、輝かしい人権なんて教えたところで死が待っているだけだ。

それならば、あからさまな抵抗だけが、抵抗ではないと直感的に思う。彼/彼女らが現状維持に加担してると、人々の主体性を勝手に奪う発言は的を得ていない気がする。

 

 

そういうふうに考えるようになって、高々と反対の声をあげるだけが唯一の抵抗手段とするのは違和感を感じるのかも。もっとその社会に入って、社会構造を見て、人々の生活を感じたいと私が思うのは、こういうことなんだろうな。

(りん)