差別のこと もう少しちゃんと言いたい(イスパレ留学期4)

(以前からもうちょっとだけ書きたいことを、続きとして書くことにしました)

 

b-girls.hatenablog.com

 

 
🍏20202

 大学のアラビア語の授業。最初の頃は、كيفك؟(元気?)」と聞かれたら、「زعلانةالطقس إعصار(もう台風並みに怒ってるんだけど!)」と冗談めかして言ってみる元気もあった。

 

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[大学構内、ロックダウン前の写真これくらいしかない…]

 

こんな私の話を聞いて、同じ授業をとるヨーロッパに住むパレスチナ系のルーツを持つ人は、何さ落ち込むことないとでも言いたげな表情をする。

「差別は当たり前にあるものだから。初めて経験するから、辛いだけだよ」

と落ち着いて私の目を見ながら、なだめるように言う。

 

私は、それがとても悲しかった。

あなたはこの辛さをわかってくれないのか、という悲しさではなくて、あなたはもう十分その辛さを知りすぎていたということが、悲しかった。

 

🍏

たしかにその友人の言う通りなのかもしれない。私がただ今までは気付かなかった問題なだけで、本当はどこにでもあって、初めて自分自身の問題として直面しただけの、そんなちっぽけな話なのかもしれない。だけどそんなちっぽけな話として片付けなきゃいけないなんて、それでいいのかな。

私はもう少しポジティブに、この差別を多くの人に問題として認識してもらえたらいいなとも思ったの。私はパレスチナの素敵な尊敬できる友人を何人も知ってたから、みんながみんな差別してくるわけじゃないって分かってた。でもあまりにも差別してくる人の数は多すぎるし、このまま何もせず帰国するのも違う気がした。本人は軽い気持ちで言ってるだけかもしれないけど、これは人を傷つける深刻な問題なんだよってことを私なりに発信しようと思った。

 

SNSに動画とメッセージを載せた。勇気のいることだった。

まず日本の友達はこれを見てどう思うか。私は危険というイメージばかりのパレスチナの良さを、いろんな人に知ってほしい気持ちもあって、留学したんだもん。これでネガティブなイメージがつくかもしれないことが嫌だった。

でも、差別について、一緒に考えてほしい。その気持ちもあった。これは綺麗事かも。本当はただ吐き出したかったんだと思う。

 

たくさん反応があった。日本の友達も、ヨルダンの友達も、現地の友達も。SNSで拡散してくれたりとか、メッセージくれたりとか、私本当に本当に嬉しかったの。少しずつでも、こうやって状況が変わっていくかもしれないんだな。こんなに優しくしてくれる人がいるんだから、私ももう少し頑張ろうって思えた。

 

それなのに、翌日朝起きると、自分でもなんでなのかわからないままに涙が出てくる。確かに多くの人から反応があって嬉しいと思ったはずなのに。早く大学の支度をして、新しい気持ちで授業に臨もう。また外に出たらあんな思いをするのかなって恐れる必要なんてなくて、信じた道を進めばいい。でもそれができないの。起き上がれなくて、怖くて、周りが一気に霧がかって真っ白になって、進むべき道が何も見えない、正しいことがわからない。あんなことをして私は正解だったのかな。結局自分のやってることは正義ぶった自己満足なんじゃないかな。

でもだからといって、ベッドでうずくまって泣いてるだけじゃ、何の意味ないのに!何かが足りないと思うなら考えればいいし、学べばいいの。せっかくこの地に来たんだから、できることは何でもやるべきなの!それでもただ泣くことと、時間が経つのを待つことしかできない私は、本当に無力だと思った。

 

 

🍏

しばらくして、日本でもパレスチナNPOの人たちが差別にあっていることが報道された。

 

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報道の力はすごかった。 

パレスチナでもそのことがニュースになって、差別すると逮捕されると公に認識されたのだ。

その前の週はラマッラーを歩いたときに2時間で50回くらい言われていたのが、報道を経て5回ほどに減った。何人かがこの報道の話を道端でしていて、気にしてるらしいことも知った。

もちろん相変わらず平気で言ってくる人もいたけど、笑っちゃうくらい明らかな変化だった。

 

またありがたいことに、ラジオやネットニュースで、日本人学生がパレスチナでどんな思いをしているのかを取り上げていただく機会もあった。視聴者は限られているとはいえ、アラブ社会に直接自分の声を届けられたことは大きな意味があったと思った。それは私の心理的な支えという意味でも。

 

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助けてくれる人も、増えた。

ラマッラーでは、私がコロナと叫ばれたときに、それを見た別の人が、私の元にわざわざ来て、I’m sorryって英語で言ってくれたり

 

大学でも、すれ違った女の子たちにコロナだって笑われたのを、私は振り返って、でも特に言い返すのもやめてスタスタ歩き始めたら、後ろから別の女の子たちがやってきたの。”Excuse me! I’m very sorry, but ignore them."

優しい子たちだなあと思った。わざわざ追いかけて、こう一言声をかけてくれることが、私にとって、どんなに心が救われたことか。アラビア語で話せばよかったのに、私はただ一言、Thank youとしか言えなかったな…

 

🍏

パレスチナに行って、私は何ができたんだろう。中途半端な滞在で、何も残せなかった、何もわからなかった。

なんでホロコーストが起こった後、今度はパレスチナの地で、同じような追放や虐殺が起こったんだろう?これがパレスチナ問題に関心を持ったきっかけだった。

暴力を受けた経験をした人や、その恐ろしさを知った人は、暴力を使おうとはしないだろうという、戦後日本が政治的にも喧伝してきたようなナラティヴをしっかり取り込んだ子どもらしい発想だった。そもそもホロコーストがあったからイスラエル国家が建国された、というナラティヴに取り込まれていたことにも、ずっと気づけていなかった。

学んだことであげられることがあるとすれば、占領を全ての悪の根源とする人があまりにも多くて、何か変えようと行動しようとする人はそこまで多くないようなこととか、人権の主張をしている割には、アジア人のような他者の人権には目も向けていない人が多いこととか、西欧中心主義が浸透しすぎて差別的な言動に無知な日本を含めた世の中とか、簡単に暴力的になれる自分とか、そんなことばっかりだ。

つまるところ「悪の陳腐さ」っていうことが、いちばんまとまっている言葉なんだと思う。

 

でもやっぱり、それで自分にはコントロールできないことだから、仕方ないから、っていうのは違う。今まではストア的圧倒的努力によって、暴力を完全に自分から排除することを目指してた。でも少なくともあの段階の私にはそれが上手くできなかった。それならまずは暴力が人間の近くにいることを認識することから始めるのがいいのかもしれない。

 

「人間的諸感情、たとえば愛・憎・怒・嫉妬・名誉心・同情心およびその他の心のさまざまな激情を人間の本性の過誤としてではなく、かえって人間の本性に属する諸性質として観じた。」(スピノザ『国家論』)

 

記憶をたどるのはやさしいことではなくて、傷ついた痕はなかなか消えないと思う。本当はタイムリーに書きたかったことだったけど、結局投稿には1年近くもかかってしまったし、いざ書いてみても、なんかこんな感じに軽くまとめられちゃうんだなって、正直呆気ないや。。

 

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パレスチナのアーモンドの花]

 

 

🍏追記:アジア人差別について

「コロナ感染を持ち出して人種差別を正当化しているだけ。もともとアジア人に対する蔑視が存在していた。それが表面化しただけなのだ。」

こう解釈したほうが、ずっと楽に理解できたし、そう今もそう思ってる。

 

とはいえアジア人といっても、中東もアジアの一つだから(歴史的に小アジアと呼ばれたところは、今のトルコだったり)、東アジアと西アジアで大きな区別があるのかなあ。そもそもアジアというカテゴリーから疑わないといけないのかも。もちろんオリエンタリスティックな中東というカテゴリーも。

中国人への蔑視が存在しているというのはヨルダンにいた頃も思っていた。「中国人って犬もなんでも食べるんでしょ?日本もそうなの?」とか、「中国人は無礼だから好きじゃない」とか、実際にそう言う人は中国人に会ったことはあるのか?もしも経験から言っているとしても、それはステレオタイプに経験を押し込めようとしているだけではないか?と私は聞いてみたくなった。けれども私は聞かなかった。不快感だけが残って、こうやって、いつも残したものばっかりだ。

今年はもうちょっと、私も変われるかな。変わりたいと思ってる。

 

(りん)

声を上げるという疲労感(帰国後備忘録)

🌷2020年5月~7月の記録

 

どうして「声を上げる」「NOと言う」「反対する」ということに、素直に共感できないんだろう?

 

BLMの賛同の声が力強ければ強いほど、どうして違和感を感じてしまうんだろう?

 

私はジェネラルに差別に反対だし、制度として既に組み込まれてしまっている差別にはなおさら反対だし、そしたら同じように、力強く叫んだっていいのに。

性暴力に対して力強く反対することも、併合に力強く反対することも、あらゆる理不尽に力強く反対することが、どうしてできないのか?

 

🌹blackoutはもう終わったの

 

例えばBLMとか、あるショッキングなニュースに対するいろんな人たちの反応をSNSを通して眺める。正直、正義が消費されているような感じがしてしまう。なんだか気持ち悪い、そう思ってしまった。

 

「知ること」「声を上げること」「呼びかけること」

この能動的な行動に対して、どうして気持ち悪さを覚えてしまうんだろう?

 

ストイックに頑張れば正義を実現できるという安易な想定への違和感なのか、手段と目的を取り違えることへの恐怖があるのか、なんだかよくわからないけど。

 

“Pre-determining the form of resistance tends to privilege the male political subject in accounts of resistance” (Hughes 2019)

 

こういう言葉に出会うと、目が開かれる。

 

同じように、Saba Mahamoodの述べるagencyの考え方も私には魅力的だった。

 

抵抗とはどんなものか。

 

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ヨルダンにいたとき、シリアキャンプに関わるNPOの方とお話しした。図々しくお家まで上がらせていただいて、カレーの味を懐かしく味わいつつ、シーシャの香りの中、理想と現実の差をただただ呆然と眺めていた。

キャンプ内の教育はどのようなものであるべきか?民主主義的なことを訴えたら、逮捕されるかもしれない、殺されるかもしれない。そんな社会があるのに、輝かしい人権なんて教えたところで死が待っているだけだ。

それならば、あからさまな抵抗だけが、抵抗ではないと直感的に思う。彼/彼女らが現状維持に加担してると、人々の主体性を勝手に奪う発言は的を得ていない気がする。

 

 

そういうふうに考えるようになって、高々と反対の声をあげるだけが唯一の抵抗手段とするのは違和感を感じるのかも。もっとその社会に入って、社会構造を見て、人々の生活を感じたいと私が思うのは、こういうことなんだろうな。

(りん)

 

「言葉」を紡ぐ-寛容とは何か-(RI)

  

 お久しぶりです。RIです~:)

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 ”Black lives matter”や「りん🍏」の投稿を受けて、改めて考えることがありました。

それは、「寛容」とは何だろう…ということです。宗教、出身、ジェンダー、人種といった様々な「差異」がありますよね。それを個人が、集団がどう受け止めるのかという姿勢のようなものです。しかし個人的には、きわめて難しい言葉であると思います。

 

 

 そう考えるきっかけとなったのは、まさしく大学入学だったんです。

 現在、交流文化学科に入学して4年目となったんです(早いですね~笑)。交流文化学科って何や?と少しわかりずらいので、“Department of Tourism and Transnational Studies ”という英語名も併せて紹介したいと思います。そう、簡単に言うと「ツーリズム」と「トランスナショナル文化」が特徴です。今度は、ツーリズムってなんだよ…て思いますよね。私も4年前は、そうでした。💁‍♀️

ここでいう「ツーリズム🛬」とは、観光だけでなく、国境を越えて移動する「文化」「ヒト」「情報」をすべて含んだ「モビリティから生じる現象」そのものを見ることです。コーヒー☕️、日系○○人、バナナ🍌、難民、イスラーム、ハワイ🌺。こう見ると、バラバラかもしれませんが、すべて「移動」「変動」を伴っています。これら「すべて」の誕生👶や変化を追う学問✏️ですね。

 んっとまあ話がずれてしまったんですが…「交流」する文化を観ていく(学問的に検証をする)なかで、「寛容/不寛容」という文字を耳にすることが多かったわけです。だいぶ前の記事に書いた通り、「イスラーム🕌」に絞って学んできました。「ヨーロッパ(フランス、ドイツ、オランダなど)社会におけるイスラーム」、をはじめとした様々な地域に広がった「イスラーム」です。便宜上「」で「イスラーム」と括っていますが、実際は「どこの、誰を観るのか」で印象も変わります。近年では、集団というよりもむしろ個人によって価値観もかわるので、一概には言えませんが…

どんな現象を見るにあたっても、ゲストとホストの関係のなかでは「寛容/不寛容(同化の推進)」という問題とは切り離せないという事実がありました。(観光におけるゲストは観光客で、ホストは地域社会です)

 

 ここで(外国語✨学部らしく)語源からみていきます。

「寛容」とは、”Tolerance”です。日本語では、「寛容」「忍耐」というように訳されます。15世紀に初めて使われた言葉のようですが、18世紀の啓蒙主義思想のもと、西洋において「信教自由」が認められた時に多用されたようです。ここで言う「寛容」とは、主にカトリックプロテスタント間における「宗教的な寛容」を指します。厳密にいうと、ローマ帝国においても「寛容」という概念はあったようなので、ここでは、toleranceに絞って考えます🤔。つまり、まずは宗教とりわけ「キリスト教」において使われていたようです。*1

 

 はたして現代の「寛容」とは、何だろうか…。

 「寛容」とは、宗教間おいての「差異」だけではありません。異なるバックグラウンドを持つ人々が交流するたびに、「違い」は生まれます。宗教、出身、ジェンダー、人種といった多様なものです。マイケル・ウォルツァーの言葉を借りれば、「差異があるところに寛容は生まれ、寛容があるところに差異が生まれる。」ということです。*2

それを一人一人が受け入れていくことが「寛容」です。しかし時に、差別、衝突や迫害をも引き起こします。

 2020年6月の今、”Black lives matter”運動です。こういった「肌の色」といった人種差別に対する反対運動は長い年月をかけて、徐々に可視化されています。白人至上主義に対して私たち「立場の弱い者」は救われないのだろうか。そう思うと、胸が苦しくなってしまいます。「りん🍏」も書いていたように、私も「差別」を経験しました。2017年8月に英国で自身が受けた「アジア人差別」は今でも胸に残っています。勉強大好きというヤジが飛んできたり、目を細める仕草をされたりです。りんと比較すると場所も期間も違います。しかし差別には変わりありません。それを「気にするな。」なんて無理です。ちょっとした「からかい」が憎しみに変わる人もいるでしょう。しかし、私はその連鎖を続けたいとは思いません。無暴力・不服従を掲げたガンジーのように、「言葉」で訴えたい(糸は紡ぎません…が)と思うようになりました。どうすれば、この差別、暴力、衝突をなくすことができるのかと。

 

 では、どうすれば「寛容」が実現できるのだろうか。

 まず私は、自身と向き合うことから始めてみます。知らないうちに、自身の価値観が傷つけているのではないかと疑います。例えば、日本人という言葉です。私の友達には、様々なバックグラウンドを持つ子がいます。しかし最近まで、平気で使っていました。異文化に触れた時、"I can't accept because  I am japanese."と口癖💭のように言ってました。なんだよこれって改めてみると思いますね。「日本人」を言い訳にしているだけなんです。うまいように使っているだけなんです。ふと考えてみると「日本人」ってそもそも何だろうって…「日本に生まれ育った人?、日本語ネイティブ?日本の血?」というように私の価値観が友人を気づけていたと思うと、なんとも申し訳ない気持ちになりました。では、そもそもこのイメージ?偏見?って何でしょう。

 偏見(Bias)の語源は、「切り取り✂」です。

 物事の全貌を見ずに、一部を切り取られた視点のこと。そのフィルターを通して「異文化」を見ることで、不信感が生まれ、やがて(ひどい場合には)衝突を引き起こしてしまうのではないでしょうか。では、一つ一つ明らかにしていくこと、「全体」を可視化していくことで、取り除かれるのかもしれない。つまり、異文化間の不和を無くしていくためには、個人が「知り、理解する」が必要不可欠です。他者からの権利、差異の寛容を求める以前に、自分自身の中にある「Bias」に気づき、知り、伝えることが今の私にできる最善のことではないかと思います。例えば、「日本人🇯🇵」「イスラーム」といったものです。時には明るい話題も。小さな声かもしれません。私の声に耳を傾けてくれる友人、家族に感謝しながら、「私ができる」ことをコツコツと発信していきたいです。そしてこれを見た誰かが、一人でも共感📣してくれたらうれしいです。

 

 最後に

 長くなってしまって大変申し訳ありません🙇‍♀️。これを見た中高生時代の先生は、腰を抜かすでしょう。あの時は、荒れてしまって、申し訳ありませんでした。

 そして、この世から差別がなくなりますように。今回命を奪われたGeorge Floydさんのご冥福をお祈りいたします。

 

 以上 田舎の無名大学生、RIでした。

 

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*1:詳しくは、ヴォルテール著『寛容論』にて。

*2:マイケル・ウォルツァー著・大川正彦訳『寛容について』

差別とか紛争とか苦しみとか、なんであるんだろう(イスパレ留学記3)

日本を上空から1人で見てる。最初テルアビブからモスクワに行くまでは、超正統派ユダヤ人9割の中にアジア人の私1人ぽつんといるっていう不思議な空間だった。モスクワから東京への便は、アジア人ばっかり(日本人たくさん)で、これも不思議な気がした。

お家までの帰りの車の中で、真っ直ぐな整ってる車線を目でなぞりながら、

ここでは、歩いてて差別されないなあ、と、ふっと出てきた気持ちがちょっと可笑しいように感じた。

極めて日本人らしい名前を持ち、日本人と言うと日本人だねと自然と受け入れられる、そのような立場にいるということ、それがどのような意味を持つのか、そうでない場合にはどのようなことを経験しうるのか、真剣に考えたことがあったか。

なんだか、人種をどうしても意識してしまうはめになった。

 

🍏

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パレスチナでは2月に韓国人巡礼者がコロナに感染していたとのニュースが報じられた、と友達から聞いた。

 

3週間か1か月ほど経ったくらい。それがもう習慣と化したように、急勾配の坂を慣れたように登って降りて、大学への道、買い出しへの道を行く。

その日常に、何か違うものが増えた。

 

「コロナ」に関するニュースは友人ともよくしていた。日本ではここで感染者が出たらしい、休校になったらしい、就活が大変らしい。

いつもの帰り道や晩ご飯の時間の話のトピックとして新たに加わったのは、

「今日はコロナって言われた?」

 

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最初は「この場所でもコロナウイルスが問題として意識されるようになったんだな」と納得したように思っただけ。外国人を見て声をかけたがりたい人たち(典型的なشباب؟)の習性としか思わなかった。今までも「China China!」ってよく言われたし(パレスチナでもヨルダンでも)、それが道端のアラブ人たちと話すきっかけになってたし。

 

でも2月下旬あたりから、明らかにアジア人の私や私の友達に向けてウイルスの名称を発せられていることが、どんな理由をつけても、理解することが難しくなった。

パレスチナでは外国人(特に東アジア人は珍しい)のでに興味本位で声をかけられやすいとか、ニュースで話題だからだとか、私も何とかこの出来事を正当化しようとしたよ。

でも冷静に考えればいい(人間の理性を過信)とか、相手は何もわかってない(自分から相手を見下すことを許容)とか、本当に感染が怖い(都合の良い理由で正当化)とか、ぜんぶぜんぶちがう!ほんとに無理なの!

 

「人種差別」という言葉がこの出来事を説明するのに完全に適しているとは思わなかった。でも私はこの言葉を使ったほうが自分たちの苦しみをあってはならないものとして、まるで強力な味方をつけたように主張できる、と感じた。だから私は一連の出来事を「人種差別」と呼ぶことにした。

 

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聞かないふりをすることもできた。何もなかったと思い込んでもよかった。

 

でもそうしても何も変わらなかった。

 

むしろ差別は日に日に増えるようだった。1日に30回以上?何百回浴びせられたか分からないウイルスの名前。

 

地元のスーパーに買い物の行き道、帰り道、「コロナ!」と叫ばれる。

セルビス(乗合タクシーのこと)で「コロナ持ってるの?」って聞かれる。一緒に乗ろうとしない人がいるから、ヨーロッパの友達が「احن ما عندنا كورونا! احن ساكنين هون(私たちここに住んでるしコロナ持ってないです)」って言ってくれたりする(優しい😢)

 

すれ違いざまに「コロナ」と言う人もいれば(この手は言い返すことが難しいし卑怯)、向かい側の道路から「コロナー!!」と叫んでくる人もいるし、建物の中から、上から、そして車からセルビスから、わざわざご丁寧に窓を開けて身を乗り出して言ってくる人も、何人も何人もいた。

 

例えば若い男集団だけがそう言ってくるんだったら、その人たちが出没しやすいスポットを避ければ良いと思うけど、同い年くらいの男たち、女たち、おじさん、おばさん、高校生くらいの人たち、子どもたち、どんな年齢層の人にも言われるんだもん。どこにも行き場がない気がしてしまう。

 

ラマッラでは歩いてるだけで1分に1回ペース(もっと多かった?)で言われたんだけど、さすがに多すぎる!私でももし誰かにそんなこと言われたら大げさすぎるでしょ!って思っちゃうけど、本当にそうなの。こんなこと信じられる?

証拠としてビデオを撮ろうと思ってやってみたら、たくさん証拠が集まるから楽しくなっちゃって、人間はどんな状況でも楽しさを見出すことができるのかとも思ったりしたけど、ただの狂気だと思う。

 

大学ではさすがにそんなことないと言いたかった。トップ大学の、教育されていると考えられる人たちでしょう?口元を覆って笑いながら逃げる人たち、教室をわざわざのぞいて「コロナ」と言ってくる人たち、「この人誰?コロナ?」と大爆笑して横を通り過ぎる女の人。正直、ただただ失望した。

 

何回も同じ練習をすれば慣れるように、何回も差別されれば楽になれるなら、よかったのに。

 

🍏

あるとき兵士のブルドーザーでパレスチナ人が轢かれてる動画が回ってきたけど、それを私はどんな気持ちで見ればいいかもわからなくなっちゃった。前だったら怒りとか生まれたかもしれないのに、そんな気持ちもどこかにいってしまった。ただ、この占領の続く中、人権を主張する声、その声は時々国際社会に無視されていて、だけど反響する声の中に現れる「人権」という言葉には、私のようなアジア人は含まれていないので、その人には非人間的扱いをしても許される社会なのかと淡々と思う自分がいただけだった。

 

「コロナ」と馬鹿にされたときにはアラビア語で言い返すこともしていたけれど、私は攻撃的な言葉を返すことが満足感とともにあるということが、ものすごく気持ちの悪いものと思った。日本語で同じ言葉を言われたとしたら私は傷つくと思う。なのにそれを自分から発していくのか?それは問われずに、自分の被害だけを強調するのはどうなのだろう?と思うけれども、私はよくわからなかった。暴力的になることのほうが圧倒的に楽なこと、思考の余地がそこには入らないこと、そのくらい突発的で、けれど後味の悪いもの。

 

その気持ちを味わいたくない。それは外に出なければ解決されること。それならば外には出ない。いや、そんな思考をしたというよりは、起き上がる力の出し方や理由を、単純に忘れてしまっただけだったように思う。

 

🍏

しばらく引きこもってた。けれど不思議とその木曜日は、人気が少ない旧市街を散策しようと思い立った。人がいないところは良い。誰も私のことをコロナ扱いする人がいない。

 

帰り道は、誰か人とすれ違うたびにコロナコロナ言われて、できるだけ身を隠して歩くようにしても、やっぱりアジア人はここでは目立つからすぐバレちゃうんだよね。こんな見た目だから、「コロナ」って叫ばれる。

別にそんなの気にしなくて良い、無知な人たちの言うことだよ、そう言ってくれる人たちもいたけど、そしたら、気にする私が悪いってことなの?この見た目である以上避けられないの?嫌だと思うならこの見た目で生まれて来なかった方が良かったのかな。私が苦しんでるのは私がおかしいだけなんだ。そういう考えが一気に広がって、泣いても仕方ないとわかっててもコントロールなんてできなくて、そんなときでもすれ違う人々はそんな私を見ても「コロナ」って言い続ける。人がいなければ良い、人がいない世界の方が平和だな。占領も簡単。ここに人がいなければ問題なんか起こらなかったんだ。人なんかいなくなってしまえ。青い国旗がこの土地に、理不尽なまでに、もっとはためけばいい。

暴力的なものを空想したほうが愉快なのは、なんでなの?

 

 

ずっと前から、どうしてこの世界に苦しみがあるのか知りたかった。どうして飢餓になるのは私ではないの?どうして欠点ばかりの私が生きて、生きたいと望む人が亡くなるの?世界はどうしてこんなにも不条理なの。不条理に抗いたくて、そう思ってるうちに、いつしかそんな自分に、生きる意味が与えられてる気がしたの。

私が知りたくてたまらなかった問いに対して、300年以上前に生きた、ライプニッツの答えが素敵だった。この世界は神が可能な限り最善を尽くしてつくったということ。

人間は悪をもたらす存在かもしれないのに、そんな自分がいる世界を最善世界だとすることが、まさしく神の愛だと言った先生の解釈に、私は魅了され続けた。即座に正義が実現されるわけではないけど、正義は実現する。なぜなら正義の理念が人間にあるから。その正義の理念を持った全人類が力を合わせれば、必ず実現する世界。

神を責めて、自分は何もしないのではなく、自分の欠点を努力によって克服して、問題解決を目指すことが大事なんだ。そう思うと、どんなことに直面しても、力強さが備わる気がしたんだ。

 

でもこれは、人間の理性の過信かもしれないって思ってしまった。

そして自分の欠点を憎み、消し去ろうとするほどに、尊敬するはずの他者にも、同じものが見えてしまいそうで、目をつむりたい。けれどもう他者に対して暴力的になるのはわかってしまって、絶望しそうで。何も見ないようにふるまって。

 

 🍏

そんなとき、去年のイスパレの学生会議の参加者だった1人のパレスチナ人の友達が、私に連絡をくれた。どうやら知り合いの女の子が私の滞在先の近くに住んでて、その子が私に会いたがってるそう。

正直、1人で誰かに会うのは怖かった。会いたがってるっていうのは嬉しいけど、これを素直に受け取って良いのだろうか?さらに嫌がらせをするために呼び寄せるだけなんじゃないか?人を信じることができなくなった自分を認識した。これもショックだった。

とはいえ、友達の友達ってことだし。暇をつぶすように、文面のやりとりだけはしてみた。金曜日の朝に会うのは?ということになって、休日の朝なら人通りは少ないし、出歩くにはいちばん良い時間かもしれないなあと思った。

 

翌日、疑心暗鬼な気持ちのまま待ち合わせ場所に行った。会ってみると、よくあるはじめましてのときにする会話を交わすことができている。別に騙そうとか、そんなことはなさそう。少し心配の気持ちが解けた。

人通りのないあたたかい春の道を歩きながら、その子の住むフラットに向かう。彼女は、もう2人の子とシェアハウスしてるらしい。その日はやけにあたたかい日だった。坂を登れば汗ばむくらいの陽気だった。

さてお家に入ってみると、あたたかく私を受け入れてくれている。朝ごはんを作るフライパンの心地よい音と良い匂いが部屋を満たしてる。フライパンにはシャクシューカ。これから一緒に食べようって。ベランダの向こうには羊飼いがいるのが見えて、丘の上と下を羊が行ったり来たりしている。聖書の中のベツレヘムも、こんな風景だったりしたのかな。太陽が少しだけ眩しい静かな春の朝で、教会の鐘の音と、モスクのアザーンの音が響き渡るときには、その音たちが空間を一気に支配してるみたいになった。ベランダにテーブルといすを出して、シャクシューカにファラーフェル、ザータルとタヒーニ、フライドポテトにサラダ、ジャム、ピタパンと、下に生えてた木から今さっき摘んできたきんかん、ミントティーを並べて、فطورの準備は完了。

 数分前に出会ったばかりなのに、信じられないくらい優しく接してくれて話してくれて、でも思い出した。これがヨルダンでも私を惹きつけた、アラブのおもてなしの文化だなって。たしかにコロナ差別をする人もありえない数いるけど、こうやってあたたかく歓迎してくれる人たちもいるんだ。私はこの素晴らしい出会いのおかげで、美しいものをまた美しいと思えるようになったんだと思う。

私は帰国を早めてしまって結局彼女たちとはその一度限りの出会いになってしまったけど、彼女たちがいるのなら、その運命を信じて、また会いに行こうと思うんだ。

 

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検問所の記録|イスラエルとパレスチナ(イスパレ留学記2)

先日Palestine Film Instituteのウェブサイトで「オマールの壁/Omar」が無料公開されていて観ました。シティアクセントのパレスチナアラビア語が懐かしいなあと思いながら、この間に私は書かねばと思い、1ヶ月以上先送りにして書かなかった留学記を書きます。

オマールの壁、みなさんに見て欲しいなと思ったのですが、無料公開期間は終わってしまったみたい。でもまた新しい映画が観れるようになっていた!!おうち時間のお供にぜひ!😊☟

www.palestinefilminstitute.org

 私も週末に観ようかなと思っています。楽しみ。

 

さて、、今回は検問所について書きます。 滞在中検問所を通った回数は2回(たった2回ですが…)。2回ともラマッラからイェルサレムへ行くときのカランディヤ検問所を通りました。イスパレ詳しい方は十分ご存知だと思うので、背景事情飛ばして読んでください。

 

背景事情

まず検問所とは?簡単な説明だけ、

 

検問所(チェックポイント)とは
第二次インティファーダ以降イスラエル軍より設置。パレスチナ暫定自治区イスラエル側の移動をする際にはこの検問所を通過する必要がある。目的はイスラエル内の安全保障のため、とされる

参考までに…カランディヤ検問所の様子(2016/05/04)

www.youtube.com

 

私はラマッラの近くに滞在していたので、イスラエル側に行くときは検問所を通過しなければなりません。例えば空港に行くときは、ラマッラからイェルサレムに南下し、また北上するという奇妙なことをしますが、地図にも現れている点線がその原因です、これが中東戦争以降のグリーンライン、すなわち「ボーダー」というもので…横切ったら早いのに!できません~~これがただ移動の制限になるだけでなく、経済活動の制約にもなると考えると、、、🤔

 

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私はパレスチナ西岸にずっと滞在していたから、そういう視点が多いです。偏っているといえば偏っていると思う!でもその前提で読んでいただければ…🙇

 

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このブログは、いかなる政治団体、宗教団体とも無関係です。

 1回目

朝金曜日に、イスラエル人の友達に会いにイェルサレムに向かう途中だった。金曜日は礼拝日だからイェルサレムまでお祈りに行く人がいるからか…?と考えてもみたが理由があるかどうかは知らない。

いつもはイェルサレム〜ラマッラの直通バスが出ているから検問所で降りる必要はなかった。そのときはイェルサレムに行く時は途中で銃とトランシーバーを持ったイスラエルのセキュリティチェックの人たちがバスに入ってきて、パレスチナ人はIDカードを出して、ランダムに質問を受けてたりしてた。ラマッラに行くときはパレスチナ側のセキュリティチェックがあって、またパレスチナ人はIDを見せていた。

 

検問所を通らなきゃいけないときは、乗っていたバスをカランディヤで下りて、あの無感情に立ちはだかる壁を見ながら、行き慣れているのであろうパレスチナ人の後ろをついていきながら、砂っぽい道路の上を歩く。「ようこそ」という文字を見れば、まるでテーマパークに来たとき、もしくは初めて訪れる国に着いたときの高揚感を人々は思い出すのか?その簡素で無機質な青い看板が語っていたのは、「検問所へようこそ」という、歓迎とは無縁に思える文字列だったが。

 

買い物のときは自分の前にお客さんがいても商品をレジ元にすぐ置くようにしないと、自分が列を作って並んでるつもりでも、後ろの人に抜かされてしまうこととか、知り合いでなくてもその辺の人といきなりおしゃべりを始め出すこととか、そういうことに、勝手ではあるが、アラブらしさを感じて、好意的な感情を抱いていたものだった。けれど検問所では、皆が列を作って黙って並んでいる姿があり、私はそれが滑稽にも見えたし、悲惨にも思えた。

 

何回も聞かされてきた、もはや象徴にもなっている、あの回転扉。緑の光が点灯しているときは一人一人あの扉を回して進めるけれど、いきなり赤い光に変わる。そうすると自分も流れに乗って通れるだろうと思っていた人が、扉を押すけれど回らなくなって、少し驚いた表情を見せる。扉の隙間から見えるのは、軍服を来た私と同世代くらいの女の子が、無表情でチョコレートを食べながら、目の前の(ガラス越しではあるが)パレスチナ人に対して何か指示をしている様子。

 

検問所をいよいよ抜けたとき、パレスチナ人のおじいさんが外国人である私と私の友達を見て、「パレスチナへようこそ!」と声をかけてくれたのも皮肉だった。「国際的」には、この検問所を越える前がパレスチナ自治区であり、超えた先がイスラエルであった。1948年以前にタイムスリップすれば、おじいさんの言うことはありふれた歓迎のメッセージにすぎなかった。おじいさんの言葉に意図があるとしたら、もしくはないとしても、なるほどと思っている。

 

あの数十分だけで、それこそテーマパークを1日中楽しんだくらいの感情の激しさと疲れが押し寄せてきて、もういいです、これだけで私は満足ですという気持ちになったので、それからなるべく通らないようにしようと思った。

 

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2回目

その検問所がコロナの影響で閉ざされるとか言われるようになったのは3月中旬。パレスチナ自治区からイスラエルに働きに出ているパレスチナ人は検問所を通れなくなったようで。外国人にも当てはまるのか分からなかったけれど、もしも検問所を通過できないと私はイスラエルにある空港にたどり着けないので、他にも起こりうるさまざまなリスクを考えて、規制が強化される前に出国することに。そのときが2回目の検問所体験。

今度はイェルサレムに居住する家族を持つパレスチナオリジンの友達の車に乗り込んで、検問所を通ることになった。


アラブの曲をかけ、陽気に運転している。他の車に道を譲るとき「تفضل」とつぶやくとことか、割り込んできた車に対してアラビア語でswearするとことか、日常語に関してはアラビア語の方が染みついているんだな。彼はパレスチナの大学で、同じアラビア語フスハーの授業をとるクラスメイトだった。

 

途中の道はでこぼこで、車は好き放題路駐していて、騒がしいのにどこか寂しかった。この地域はイスラエル側にもパレスチナ側にも管理されていないところなんだと彼は教えてくれた。その風景が既に、語りかけていた。

 

検問所までまだ距離があるところで突然彼は、この曲を流すのをやめようかと言って、英語の曲に切り替えた。なんで?と聞いたら、検問所の人はこういうの好きじゃないからね、と言った。それがいかにも慣れた口調で言うんだ。

 

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車で通る検問所は、高速道路の入り口を思い出した。まずパスポートを出すように言われる。どこに行ったの?いつ入国したの?それはどの便だったの?出国の便は何時?聞かれて答えると、その人はどこかに行ってしまって、しばらく現れない。

 

軍服を来て銃を下げた女の人が、今ボスの返事待ってるんだ、と伝えに来てくれた。そしてまた待つ。

 

何回かこちらに来て、同じように伝える。車を運転してくれた彼が、どのくらい時間かかるの?ボスにまた確認するように連絡してくれない?と聞く。そうするとその女の人は、今ちょうどボスと話しているところなの、とトランシーバーをわかりやすく私たちに見せる。私じゃないの、軍の指令が一番強いの。優しい顔のまま、落ち着いたトーンで話す。首には銃がぶら下がっている。

そんな彼女に対して、彼が何かを言おうとしているがさえぎられる。しかしまたタイミングをうかがって、落ち着いた様子でこう言った。

「As a Palestinian, you are the niciest person I've ever met」

私は彼女の言動に優しさは感じたけれど、特別な優しさを感じたわけではなかった。むしろ極めて普通の対応だと思った。彼が見たもの・見てきたものは、私のそれとは、やはり違かったのかな。そう想像することしかできないけれど。はにかんだように「Thank you」と言った彼女。忘れられない光景。

 

待っている間、アラビア語で話しかけて来た職員(兵士と呼ぶのは正しいのか、ただ職員という言葉にも違和感を覚える…⁇)もいた。アラビア語あんな風に流暢に話す人もいるんだね、と言うと、あの人はドゥルーズだと思う、と彼は教えてくれた。ドゥルーズの思想の中にはシオニズムと重なるようなものがあるらしく、アラビア語話者であると同時にプロイスラエルドゥルーズもいるらしい。アラブ人はイスラエル市民でも兵役義務がないのに対して、ドゥルーズは兵役義務がある。彼はドゥルーズの思想に並々ならぬ興味を見せていたので私も興味を持った。イスラエルの北部に多く住んでいるそうで、そこに行くチャンスのなかった私は滞在中その人以外のドゥルーズの人に出会うこともなかったけれど。

 

検問所で仕事をする人って、どんな層の人なんだろう?と純粋に疑問に思う。今までに幾度となく聞けるチャンスはあったのに、私はある評判だけを聞いてそれに感情を寄せるばかりで、自分からそれ以上のことを知ろうと思いもしなかった。それに同調のようなおそろしさを感じていた。でもそれで知った気になっていたのは、ただの偏見でもあったと思える。帰国してから、もっと知りたい、と思うな。帰国してからのほうが情報も限られてるのに。

 

なかなか戻ってこないパスポートをただ待つのも飽きて辺りを見回してみると、左手には救急車が同じようにチェックを受けてる。ああこれか、運ばれている最中でも止められて命を落とす人もいるんだ!と強い口調で言っていた人を思い出す。

 

隣で運転席に座る彼は、さっきから何回もお父さんから鳴る電話をとっている。今どこ?時間かかってるの?イギリス英語の間に挟むアラビア語を、私は横で楽しんで聞いている。「カランディヤの検問所じゃなくてヒズマに行った方が、絶対いい」とお父さんが説得をしだしたとき、やっとやっと人が来て、パスポートが帰ってきた。1時間ほど待っていたかな。

夕暮れも終わりに近い頃。

ここを過ぎると、街が一変する。整えられた道路、整えられた分離壁ヘブライ語の看板、信号、この景色が多くを語っている。途中にはアラビア語ヘブライ語並列に書かれたお店の看板も見えて、ああここはアラブ人居住区なのかと推測できる。この検問所を隔てた先では、パレスチナ人も大抵ヘブライ語を使える。

 

運転をしてくれた彼に何気なく、家族はずっとイェルサレムに住んでいるの?って聞いてみると、イェルサレムがヨルダンの管理下だった頃、家族がそこに家を建てたから、今の家があるんだと教えてくれた。

「I'm the result of history

自分が生まれた国は自分が生まれる昔、植民地化された。その結果こうして白人の自分がいるんだ、とおどけたように言った人の言葉を思い出す。歴史の結果を体現しているとでもいう人、街、それが今まさに私の見ているもののすべて。それが、ものすごい事実として、心を奪われそうな明かりの灯る、夜のイェルサレムの街を通して伝わってきた。

 

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たくさんの後悔を残しイスラエル・パレスチナを離れることにしました(イスパレ留学記1)

オーソドックスのユダヤ人ばかりが乗る飛行機に乗り、13時間の乗り継ぎ時間の間ヘブライ語が聞こえる隣で大学のオンライン授業も受け(テーマは第一次インティファーダ)、すっからかんな日本の空港に辿り着きました。

どこをみても日本語の世界で、歩けば日本語が聞こえる。道路は平で整備されててみんな交通ルールを守ってて、スーパーの商品はきちんと棚におさまってて値段の表記があって、トイレットペーパーは店内にはありませんってわざわざ張り紙もしてある、そんなところに帰ってきた。

体内時計はまだ7時間遅く動いてる。今日も6時(日本の13時)にちゃんと起きて、眠くない日本の夜を過ごしてる。

 

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[イェルサレムの観光も1回しかできなかったな…曇りの日の写真しかない]

 

もう帰国したから、帰国があの状況にいた私にとってはベストだったんだ、と思うしかないけど、そうしないと自分の決断を正当化できないからだと思うけど、でも、もっと他にできたことがあったんじゃないか、果たせなかったことが多すぎて、後悔ばかり。帰国したら絶対後悔するってわかっての決断だった。でも帰国しなくても後悔すると思った。どっちの選択肢を取るにしても何かを諦めなきゃいけない。

 

私は決断をすることが怖かった。

 

普通に外出しようかなって普段考えるときでさえ、外歩いて運動した方がいいし、、でも家でやることもあるし、、今日は天気がいいし、、でも日焼けしたくないし、、みたいな理由をひたすらあげて結局は時間を浪費しているだけに終わるくらいに行動の決断が苦手。
さすがにもう身の危険を感じるし、当初の目標を果たせなさそうだから帰国する!!っていったん決めても、やっぱり残りたい、そのほうが自分の目的に適うんじゃないかって何度も考えてしまうので、航空券の購入画面からその先のボタンが押せず、何時間もパソコンを放っておいた。


自分の意志で決めたことを自分の意志を使って終わりにしなきゃいけないことは残酷だと思う。


最後の最後に私の背中を押したのは、同じパレスチナの大学で勉強していた友達もその日に出国を決めたから、一緒にボーダーを通って空港まで行けたら、今後一人で通ることになるよりも安心なんじゃないか、もうこのチャンスって二度とないんじゃないかって思ったこと…(下①をご参照ください~ここでも占領がなあ…って思う)

 

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[イェルサレムの旧市街にあったTシャツたち]


深夜の便の航空券を午後3時くらいにやっと買えて、急いでパッキングして会える人にはさよならを言って、2時間後には空港に向かってました。もう本当に信じられない!これが最後の景色なのかって思うと、やり残したことばっかり頭に浮かぶし、でもそれは私の力でどうにかなったかというと、そうじゃないし、なんでこんな理不尽なんだろう!ただ例年多くの人がしているみたいな留学生活をしたかったのに…こんなところで中断しなきゃいけないなんて。


きっと今回の決断には、ベストなものなんてなくて、どっちを選んでもものすごく不安で後悔することなんだろうなって思っています。自分の決断を正当化して自分を守るためにも、そのときに考えた理由と気持ちを書き出しておこうと思いました。長いですが同じようにもやもやしている人の支えになればなんておこがましいけど、そんな望みも抱きつつ書いてみます。

 

帰国を決めた理由


イスラエルパレスチナの行き来が困難になる可能性が高くなった


3月15日(日)に、イスラエルで働くパレスチナ人労働者が、イスラエル内に入ることを禁止されパレスチナヨルダン川西岸)にとどまるようにとの決定がありました。
イスラエル内で働くパレスチナ人は約20,000人と聞きました。正式な数が把握しにくいのは、法外の闇市で働く人たちもいるからだそうです。
パレスチナイスラエル間の移動は、検問所/チェックポイントを通る必要があります。パレスチナ人労働者はこの検問所での出入りを禁じられたのです。この決定はすべての行き来しようとする人(当然外国人にも)にあてはまる可能性があり、「数日のうちに検問所が完全に閉められてしまうのではないか」、とSNS上でも話題になっていました。正確な情報で判断したかったのでジャーナリストの方に確認したところ、正式な発表があったわけではないとのこと。ただ、今後そうなる可能性は否定できない。私は「発表がされて動くのではもう遅いのではないか」、と思うようになりました。もし閉鎖されちゃったら、西岸の中に閉じ込められて、空港にも行けないことになるので…(でもこの私にとって異常で緊急な状態が、パレスチナ人にとっては通常のことなんだな…)

 

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[検問所に向かう途中] 

 

② 航空便が激減してきた


イスラエル/パレスチナに入国する方法は2通りで、
1) 空路 イスラエル側のベン・グリオン空港から
2) 陸路 エジプトかエジプトから


2に関しては、エジプトはシナイ半島を通るルートなので、もともと外務省の発表する危険レベルの高さ的に選択肢としては考えなかった&ヨルダンのボーダーは既にコロナの影響で封鎖されていた、ヨルダンも空港封鎖を始めていた、という状況でした。


出国するとしたら1の空路を考えるしかない。けれど今やイスラエルの入国者は大幅に制限され、航空会社も採算をとるためにイスラエル発の便数も大幅に減らしていました。特にアメリカやヨーロッパ諸国が非常事態宣言を出してから、それらの国に飛ぶ便は続々となくなっていきました。一緒に勉強してきた留学生たちも、大使館や大学から帰国命令が出て帰っていきました。

 

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[空港からの行き道で見つけた直行便宣伝の看板、日本のイメージがわかる笑] 

 

③ 次の留学先(イギリス)の危険レベルが2になり、渡航が不可能になった


私はイスラエルパレスチナの滞在が終わった後、イギリスに滞在し、有機農業ボランティアをして持続可能・自立的な社会体系を考え、そのあと大学のサマースクールで開発学を学ぶ予定でした。トビタテ奨学生ですが、その規定として、「レベル2以上の地域での留学は支援の対象外となる」ということが決められています。また、日本政府も不要不急の渡航はやめるように勧告しています。そうなってしまった以上、私はこの後直接イギリスに渡航するのではなく日本に帰国しなければならないことになりました。そしたらいつ帰国するかどうかだけが問題。今すぐか、様子を見るか…そう考えていたとき、

 

イスラエルで不必要な外出を禁止する発表が出された


つまり滞在し続けていても、外出が一切できない。観光はおろか友達に会うこともできない…

他の留学生が帰国しても私が滞在を好んだ大きな理由として、「現地の友達に絶対に会う!」という強い気持ちがありました。

私が留学を決めたきっかけは、友達が直面する状況をこの目で確かめなければいけない、そうでなければ「紛争が解決してほしい」、「平和な世界になってほしい」と口にはしても第三者の机上の空論にしかならないだろう、と思ったこと。だからそんなふうに思わせてくれた人たちに感謝の意も込めて、その人たちの街を訪ね、再会したかった。

でも、この発表によって不可能になってしまった。もしかしたら近いうちに解除されるかもしれません。でも一向に解除されないまま、むしろ規制が強まっていったらどうしよう、と思うと、ここに居続けることを考え直さなきゃいけないなと思いました。実際にジャーナリストの方も、「この発表が出たことを受けて、パレスチナでも同じような流れになり、さらに規制が強まるのでは?と」予想していました。22日からcurfewが実行されるそうな…

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[イェルサレム新市街にあるマハネー・イェフダ市場。再会したイスラエル人の友達と一緒に、カットフルーツやハラワ、クナーフェを食べ歩いて楽しかったなあ]

 

⑤ 体調不良になったら外国人をわざわざ受け入れてくれる医療機関があるのか保証がなかった


そして普通にコロナが広まってる中、私も感染しないとどうしていえるでしょう。ただでさえ心身ともに疲れを感じていて、コロナに感染するまでもいかなくても、体調不良になる可能性は高い。だけど病院もパニック状態。パレスチナは適切な処置ができる病院の数もかなり少なく、感染者の手当てで手一杯な中、自国民を差し置いて外国人を手当てする余力があるのかと考えると、難しいと思う。外の状況だけでなく、自分の健康状態も気にかけなければならないと気づきました…

 

⑥ 毎日のようにパレスチナに来ていた留学生が自国に戻り、心理的な支えがなくなってきた


一緒に勉強を続けていた友達たちがどんどん帰国していく。アラビア語の授業はいつの間にか2人しかいない。しかもパレスチナだけでなくアメリカやイギリスに留学していた日本の友達も次々と帰国を決めている中で、私は状況を楽観視しすぎではないのか?と焦りが生まれていました。毎日のように新しい規制が発表され状況が変化し、「今日は何が起こるのか…」と不安な気持ちのまま勉強にも集中できなくなってきました。

 帰国の決断と今後


正直本当に帰国したくなかった。帰国したいとはいいつつも、それは寂しいっていう表現で、誰かに帰国を考えた方が良いって言われても私はここに居続ける!って心のうちに決めてたの。私は強い目的と意志があってこの留学をした。どうしたら平和を達成できる社会を構築できるのか、その可能性を本気で考えたいって。
もちろんこれに対して、日本でもできることはたくさんある。だからこのような状況になってしまった以上、そのできることにフォーカスして、前向きに進んだらいいと思う。

でも、現地に行かなければわからないこともあるなって思う。


あの検問所を通ったとき、無機質な壁を眺めたとき、ヨルダン川西岸からテルアビブのビル群を見つめたとき、銃を抱えた人々を見たとき、そして銃声を聞いたとき、どんな気持ちになるか、いくら人から聞いても、私はわからなかっただろう。

これは連続的な出来事で、断片的に切り取っても全容はつかめない。見たもの聞いたものの積み重なりが、新しい感情を生みだしているような気がした。

 

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[入植地の狭間で生活しているアラブ人のおじさんが、門を開けてくれたとき]

 

電気や水が自由に使えずまた止まった~って話すと、それを簡単に占領のせいにして具体的な行動をとっているように感じられない人々に対するフラストレーションもあったし、コロナコロナって叫ばれるのは西岸にいるときで、そんなモラリティで世界に向けて自分たちは被害者だって自国の人権を訴えようとしてる姿に怒りと失望を感じたこともあったし、もちろんこれは突発的な感情だからいろいろ議論の余地はあるけど、こっちで生活しなければ知ることもなかったと思う。知りたくなかったことも思い出したくもないことも経験として言いくるめてしまえば、綺麗になってしまうんだな。

 

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[停電が何回起きたか数え切れない!ガスと水は使えるなら、停電時やることといえば暗闇クッキングだった]

 

普通の国」だったら、またコロナのパニックがおさまったら行こう、と言えるけど(もちろんこのタイミングで行くこと自体にすごく意味があった、という声が聞こえるのは承知の上で)、ここは違うから、もう一度簡単に来れるところではないから、出国が本当に辛かった。またいつか来る!とは絶対思ってる、けど入念すぎる入国・出国審査を経験したあと、パスポート変えるまでは少なくとも行くべきじゃないのかな…って感じてる。


それと私のこれらの経験から培われた価値観として、したいと思ったことはすぐにしないと、もうその機会は二度と訪れないかもしれないって思うようになった。何か起こっても、自分(や自分に近しい人)はそれに当てはまらないだろうってどうしてか考えちゃうけど、そんなことない、誰の上にだって雨が降るように、誰にでもありえることなんだ、

 

だから自分の心に強く存在するものはいつも大事にして、目指すもののためには今すぐに取り組もうって思う。道が見えにくくなったかもしれないけど、道がなくなったわけじゃないと思うから、頑張らなきゃな。

 

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[ヤッファで友達と再会できたとき、その子の一押しジェラート屋さんにて]


日本の隔離生活の間に滞在の記録をまとめて更新していきたいと思ってます。サバイバルだった日常生活のこと、差別のこと、すごく嬉しかったことも書いておきたいな…なるべく新鮮な気持ちのままで。コロナで外出できなくてすることないな~っていうときにでも頭の片隅にあったらのぞいてみてください~~

コロナウイルス流行による「アジア人」への人種差別について(RI)

 

 こんにちは、RIです。本日は少しまじめな話から始まります。

 

コロナウイルスによる人種差別について思うことがあるので、この場で共有させてください。

何故今このお話をするかというと、先日インドで体験した人種差別についてです。

最近、新型コロナウイルス感染症が話題になっているかと思います。ウイルスの感染力が強く、桁違いの感染者数で沢山の方が命を落としています。

しかしそれに付随した中国・韓国・日本といった「アジア人」に対する差別が深刻化していることをご存じでしょうか。

 

実際に私が体験した差別を紹介します。

先日2月中旬に、インドへ1週間ほど観光で訪れていました。街中のマーケット、空港や駅で上から下までジロっと見られていました。全員ではなかったのですがその中の一部の人たちが、「コロナ」「チャイナ」という言葉を私に対して言っていることは理解できました。電車等で私が座っていると、目の前の大学生とみられる男女数名が私の方を見て笑うこともありました。インド社会において、「外国人」というのは珍しいものだという理由もある子かと思います。しかし明らかにその限度を超える言動があったことは否定できません。

 帰国後、(個人が特定される可能性があるので伏せます)中東に滞在する友人の私の体験を上回る話を聞きました。それをインドの友人に伝えると、「君には伝えてはいなかったけど、結構酷いことを言われていたよ。」と返ってきました。現地の言語が分からなかったことが、幸運だったのでしょうか。

 

 ・避ける

 ・(少し誇張していますが)暴言を吐く

 ・クスっと笑う

 私(アジア人)の顔を見て身をもって体験した卑劣な行為です。これでいいのですか。黙ったままでいいのでしょうか。私たちは人間であって、ウイルスではありません。悪いのはウイルスです。どうか、誤解しないでください。

 

 かという私も中国の方を見ると、少し抵抗を感じていたのは事実です。しかし、その人がウイルスを持っているという確証はどこにもありません。自分自身が被害を受けた側になってようやく人は間違いに気づくのでしょう。中学生の時にイジメはダメだと教わっているはずなのにです。どの情報を信じるのかはあなた次第です。この情報を信じるかどうかもあなた次第です。

 

全ての言動や行動の責任は貴方にあります。

 

この話をしましたが、インド旅行自体はとても楽しかったです。後日体験記を載せますので、興味のある方は見てくださると幸いです(T_T)