最近開催したパレスチナ勉強会について徒然に書く

6月と7月、知人や友人の間でパレスチナの勉強会を何回か開いてみた。

 

パレスチナの野犬が寝ぼけて友達の靴を離さない

 

コロナの影響で突然の帰国後、パレスチナとの向き合い方についてずっと考えてきた、というのは嘘になる。私は考えるのを放棄していた。単純にしばらくは渡航できなさそうだし、大学3年生復学して就活なり進路を考えなきゃいけないし。

 

仲の良い友達と連絡はするくらい。たまに占領の被害の動画とか送られてくるけど、気分で見たり見なかったりした。遠い地域のニュースなんか日本にほとんど入らない。自分で繋がりを持とうとしない限り、簡単に、自然に、日本の今の生活だけに集中するようになる。大学も復帰して、授業に追われる日々だった。

 

2021年5月。

Facebookやインスタを開く度に、立ち退きにあったパレスチナ人の動画や、ガザの爆撃の被害の様子、イスラエルへの抗議を目にした。パレスチナ人だけじゃなくて、ヨルダンの友達も、学生会議の友達も、そのような投稿をシェアしてる人が多かった。恐れずにいえば、正直そんなのを見るのが疲れてしまった。

 

学生会議をやっていたときに会ったジャーナリストの人は、「パレスチナに関するニュースは昔から変わってない。イスラエルに攻撃された、何人死んだ。そういうニュースが何十年も続いているだけ。」と言っていた。年月や人の名前を変えれば、同じ内容のニュース。そう。これも一時的な高まりを見せているだけで、何千回何万回も同じような声が聞こえてはかき消され。もううんざりだった。

 

日本でも珍しくガザの爆撃が放映される。破壊された石や瓦礫が飛び散る瞬間が目に焼き付いた。「昨今のニュースを見て、心を痛めているんじゃないの?」と言われ、知らない間に涙が流れるのを認めて、私は自分の感情が他者のそうした言葉によって表現されることを少し救いのように感じた。

 

でも周りと同じように占領に反対する投稿をしたり爆撃の動画を共有する気にはなれなかった。知ることが大事?関心を持つのが大事?知ったところでどうする?何万回も繰り返されているものの中の1つを、あなたは本気で受け止めて行動に移すことができるんですか。知ることが大事と言うのは、私には行動しない自分への慰めにしか聞こえない。

そして、考えること、行動することを放棄している自分。ただただ過ぎていく時間にだけは申し訳なそうにして、その時間を埋めるように泣いている。全部言い訳でしかない。

 

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ちょうどC-Week(大学のキリスト教週間のことで、いろんなイベントが開催される)だった。早朝礼拝で布柴先生が、環境研究を専門にするに至る話をされていて、そこで自分にこそできることは何だろう、と学生のときに考えたのだとおっしゃっていた。それが不思議と違和感なく抵抗なく心に入ってきて。

灯りを消した部屋の中で考えた。中東留学者は全体の1%しかいないんだ…ましてやパレスチナに行く日本人なんてそうそういない。今も渡航規制がかかってる状況。しかも日本でこんなに報道されて、あまり関心ない人の耳にも入ることなんて、この先あるだろうか。この今を逃したら後悔するかもしれない。私だからこそできることなんておこがましいと思っていたけど、もっと素直に考えてみたら実はあるのかな。ちょっとだけでも試してみようかな。そんな気持ちになれた。考える機会を与えてくださったあのお話しにはひたすら感謝だなあ。。

 

勉強会めいたものをやりたいなあと思っているとさらっと投稿したら、私が思ったより反響があって、うれしかった。りっちー(このブログのライターの1人)が協力するよ!って言ってくれたのも、本当に支えになった。ありがとう。

パレスチナで出会った留学生の友人たちにも、勉強会を開きたいからと連絡したらたくさん情報提供してくれて。何かをしようと一歩だけだったけど、踏み出すだけで、こんなにも協力してくれる人がいるんだ。あたたかい気持ちになる。そうしていつの間にか前を向いている。

 

どうやって伝えるのがいいんだろう。何を知れたらいいんだろう。学校の先生が授業の用意するのってこんな気持ちかな。そしたらかなりの時間を費やして、わずかな時間に賭けるということ、大変なんだろうなあ、でもかっこいい。伝えることは、責任が伴うもん。

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左がイスラエルの友人、右がパレスチナの友人から。

プロイスラエルでもプロパレスチナでもないように、できるだけ多様な情報源にあたろうと思った。学生会議のときに、涙するイスラエル人の子の顔が忘れられなかったから。主語が大きすぎて、人を傷つけてしまうことがあるんだって想像できなかった自分への戒めとして。

勉強会を覗きに来てくださった人たちには、何か1つの欠片でも、残るものがあればいいなあと思う。知ることが大切だとは私は言わない。そんなの正直私はただの知識の消費でしかない思っちゃうし。けど、少し期待していいのなら、例えば、誰かの話が妙に頭の片隅に残ったり、同じような話を何度も耳にしたり、偶然にも誰かに出会ったりして、あたらしいものが生まれるように。変化には拘泥したい。でも直接的に人に影響を与えるのは難しい。そしたら直接に拘らなくていい。私個人でもたくさんのことに気付くのに多くの過程を要したのだから。その人の中で何かと何かが重なったときの瞬間があって、私はその何かにでもなれたら、それは幸せなことなのかもしれないな、と今は考えている。

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一連の攻撃に対して各国での反応。情報提供はパレスチナ留学時代の友人。

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いろんなことを考える機会を与えてくれたのがパレスチナだった。日本の構造的暴力も、世界に溢れるオリエンタリズムも、人種差別も、わずかな言葉の差異による暴力も、パレスチナを考えずして気付くことができただろうか。

 

あの場所での経験は苦しいことの方が多かったと思うけど、私は伝えたいことがある、考え、学び続けないといけないことがある。

何もできない私が誰かに何かを与えられるようになるまで、もう少し修行する。

 

(りん)